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ハロウ校紹介

ハロウ・スクール(HARROW SCHOOL)

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夏の学期中は、丘の西方にある三ヶ所の競技場でクリケットが行われます。また、テニス、スカッシュ(これはハロウで考案されたものです)、フェンシング、バスケットボール、柔道などの武道、バドミントン、器械体操、ゴルフ、乗馬、そして、新造の屋内プールで水泳をすることもできます。体育館の外壁では登山の練習が可能ですし、近くの人工池ではヨットをする生徒もいます。

青少年軍事訓練は生徒の自発性に基づいて行われています。また、お年寄りや身体障害者の手助けをする地域ボランティアにいそしむ生徒たちも大勢います。その他にも、興味に応じて数多くのクラブが設置されています。

授業では、生徒たちは麦藁帽と紺色のブレザー(通称ブルワー)を着用し、日曜日や特定の行事のある日には燕尾服と縞のズボンを身につけます。これらの日には、モニターと呼ばれる選ばれた最上級生は山高帽をかぶり、銀の装飾をつけた杖を持ち歩きます。

生徒たちが各寄宿舎で食事をする慣習は1976年以降とだえ、今ではシェパード・チャーチル・ダイニング・ホールで三食をとります。このホールはその建築様式により、1980年にシヴィック・トラスト賞を受賞しました。

寄宿舎は、今なお生徒たちの学校生活の中心です。最初の一年間を除き、生徒たちは個室を与えられます。そして、寄宿舎は彼らが友人を作ってゆく最も自然な場であるとも言えましょう。寄宿舎間でライバル意識を燃やすことによりスポーツもより盛んになり、寄宿舎対抗の勝ち抜き戦の決勝は大いに盛り上がります。

ハロウでは、常に各自の能力を最高にまで高めるための機会が設けられています。また、そのことはジョン・ライオンがモットーとして選んだ言葉、「神の賜物を忠実に育む(原語はラテン語)」の中に明確に表されています。

ここ数年来、新しい設備が学校組織に加えられ、様々な面からわが校のさらなる発展を確かなものにする結果となってきました。つまり、それは新しいドラマ・スタジオであり、視聴覚教材を調達する資料センターを意味します。また、工作デザイン技術やコンピューター、地理学などの部門が集約されているのはチャーチル・スクールです。発案と製作を最新のテクノロジーを駆使して行う工作デザイン技術、卓上レイザープリントを含むコンピューター設備、また、それに連結された気象衛星からの受信装置などが、未来に眼を向けているわが校の姿勢を示しているのです。(翻訳山本和也氏)

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ハロウ・スクールの歴史

ハロウの丘の上に学校が誕生して、すでに四百年以上が経ちます。母体となった学校は、恐らく聖メリー教会の敷地内にあったと思われるのですが、これをこの地方の自作農家だったジョン・ライオンが無償の文法学校として再創立する許可をエリザベス一世女王から得たのは1572年のことでした。死に際してライオンが妻に委託した収益は、彼女の死後、校舎の建設に費やされ、学校は1615年にハロウ地区の少年約30人を集めて開校されました。生徒たちは週に6日、1日10時間、ラテン語と初級のギリシア語をここで学んだのです。日曜日には、生徒たちはライオンが遺しておいた資金で教会の教えを授けられていたのです。

ここでは、ハロウ以外の地区の少年も学ぶことは出来ましたが、彼らは授業料を納めなければ成りませんでした。この制度は、1868年に議会の法案により学校のステイタスが変えられるまで継続されていました。

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オールド・スクールには1615年創立当時の教室が残されています。ただし、パネルやベンチ等一部は後に加えられたものです。この教室は、十九世紀には第四教室の名称で知られるようになりました。また、ここ二百年間、生徒が卒業の際に壁に名前を彫るという伝統が培われてきました。今もうかがえる名前としては、劇作家のシェリダン、作家であり、郵便ポストの発案者でもあるトロロップ、写真術の創始者フォックス・タルボット、元首相であり、メトロポリタン警察の創始者でもあるロバート・ピール等ですが、最も著名なのは、戦時中の首相として英国の栄光を築き上げたと讃えられるウインストン・チャーチル卿でありましょう。

さて、学校の規模が拡大するにしたがって、校舎が手狭になったため、1820年に学校の拡張が行われました。これが現在、教室、およびオールド・スピーチ・ルーム・ギャラリーとして使用されている部分です。ここには絵画や書物をはじめ、陶器や自然史の標本類など、学校が所有している品物が展示されています。窓にはまったステンドグラスには学校の理事や校長、卒業生等の紋章もかたどられています。

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ハロウ校の生徒は、現在では世界中の国から集まっています。そして、彼らは丘の上の道に沿って林立する11の寄宿舎のいずれかに部屋を取ることになります。校庭から見える寄宿舎のうち、右側がドリューリーズといい、ヴィクトリア・ゴシック調の凝った設計で、その監舎を60年近くの間つとめた二代の先生の名によって名づけられたものです。そして道の向こう側に見えるのがヘッドマスターズ(「校長の寄宿舎」の意)ですが、今はもう校長はそこには住まず、チャペルのテラス・ガーデンの下方にある私邸で暮らしています。

校庭の門を出て、チャーチ・ヒルを渡ると、別に三つの大きな建物が視界に入ってきます。右側に見えるのがヴォーン図書館で、19世紀の中ごろに学校の財政を立て直したことで知られる校長の名を取って1863年に開館しました。それに並んで左側には、図書館同様ジョージ・ギルバート・スコット卿の設計でヴォーン校長が建てたチャペルがあります。チャペルの南側の部分はクリミア戦争で命を落とした卒業生たちを悼んで築造されたものです。チャペルの地下室には二度の世界大戦の記念碑が建てられています。

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チャペルの裏手にはテラス・ガーデンがあります。晴れた日には、この閑静な舞台からロンドンの素晴らしい景色が一望できます。

さらにその先、チャーチル・ヒルの脇にある階段から見て左側には、1926年に完成したウォー・メモリアルの建物があります。入口の壁には第一次大戦の、また、内部には第二次大戦の戦没者の名前が刻まれています。階上にはフィッチ・ルームがありますが、これは1918年、第一次大戦の休戦間際に戦死した卒業生を悼んで同胞総てを代表しているという訳です。ジョージア戦争当時の床板やチューダー朝のパネル等、このフィッチ・ルームにあり品物はみな歴史上の遺産というべきもので、部屋の窓もまた、一見の価値ありと言えます。

階段を下ると、スピーチ・ルームへ出ます。ここは学校の集会やコンサート、映画会、講演など、多目的で使用されています。また、ここでは毎年、エプロン・ステージ(前に大きくせり出して拡張できる舞台)でシェークスピア劇を上演したり、生徒たちがハロウ校の歌を披露したりもします。かのチャーチルもこのハロウ・ソングを愛好し、戦時中からしばしばこれを聴くためにハロウを訪れたほどです。夏の学期中の弁論大会には、父兄が集い、年長生による弁論や表彰の式典にも参加します。

ハロウ校の生徒は、日曜日を除く毎日の午前中と週三日の夕刻に授業を受け、午後にはスポーツやその他の校外活動にあてられています。授業は丘の上に散在する校舎で行われます。

東側に位置する運動場では、冬の間もスポーツが盛んに行われています。ここには、ラグビー、サッカー、そして、わが校特有のハロウ・フットボールの為の競技場が設備されています。このハロウ・フットボールは、この地方の泥土の為に雨の多い冬の間ラグビーが出来なくなるところから発達してきたもので、春の学期中に楽しみます。これには、独特のルールがあり、ボールも奇妙なかたちをしています。

(文章:イートンカレッジ・アンド・ハロウスクール日本事務局提供)

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